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紋別市・上藻別駅逓所☆北海道の開拓時代にタイムスリップ!

こんにちは。オホーツク景観発掘ブログ事務局のYOKOです。
usagiさんからいただいたオホーツクの景観をご紹介します。

駅逓所(えきていじょ)って知っていますか?馬や馬車が重要な交通手段だった北海道の開拓時代、街道沿いに10数キロ程度の間隔で設置された、郵便の取り扱いや物資の継立を行ったり、馬と共に宿泊することのできる施設です。全道に200以上あったとされますが、現存するものは少なくなってしまったのだそうです。

紋別市上藻別(かみもべつ)。築80年を誇る「上藻別駅逓所」が今でも大切に保存されています。

上藻別駅逓所

上藻別のすぐ近くには、かつて東洋一と謳われた鴻之舞金山がありました。最盛期の昭和15年頃には、1万3,000人を超える人口で賑わった鴻之舞。駅逓所は、当時の様子を今に伝える貴重な建物なのだとか。
上藻別駅逓所の建物内

7月のある日、上藻別駅逓所におじゃましたところ、保存会の林さん、増田さんが出迎えてくれました。木造2階建てのがっちりした建物の中は、開拓時代の日用品や、五右衛門風呂のある浴室、金山の様子を伝える資料室など、みどころ沢山。「金山の生き残り」とおっしゃる林さんが展示品を手にとって丁寧に説明してくれて、しばしタイムスリップしたようなひととき。保存会のメンバーはみなさん、金山の昔を知っている方なのだそうですよ。貴重なお話を伺うことができました。

林さん、増田さん、いつまでもどうぞお元気で。また遊びに行きますね。

上藻別駅逓所保存会の方
(クリックすると画像が拡大します)

「駅逓所」という言葉をはじめて耳にする方も多いのでは?道東にもこのような貴重な建物が残っていたのですね。

今なら数時間の道程を、馬に乗り何日もかけて目的地へたどり着いていた時代の建物。このような時代を経て、今があるということを子どもたちの世代にも伝えていきたいですね。

紋別市街から金八峠へ向かう道道305号線の、鴻之舞金山跡の少し手前。人家のほとんどないところで、道路右手に1軒だけぽつんと立っているとのこと。隠れた観光スポットですね。

この景観の感想・コメントをお待ちしております。

景観情報の応募方法は、「オホーツクの隠れた景観大募集☆オホーツクの特産品プレゼント」をご覧ください。たくさんの応募をお待ちしております。

※この場所の地図はこちら!「Google map(グーグルマップ)」


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コメント

釣山 史:

◆上モベツ駅逓所と鴻之舞金山
ア)上藻別部落の形成
 上藻別原野の殖民地区画は明治36年であるが、この時の入殖者はなく、実際に初めて現地へ入ったのは同40年の山崎梅吉であった。続いて明治42年の原野増割では福原浅吉のほか数戸が入殖し、同44年には十数戸の土佐団体が入地して部落が成立すると、翌年に「上藻別特別教授場」が開設された。
 このうち福原は鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山の現場監督であり、栄養不足による脚気に対応して農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。
イ)鴻之舞金山の始まり
 かっては東洋一と云はれた鴻之舞金山は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ6線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのが始まりで、翌5年に元山大露頭が発見されるに至って、同年、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。
 大正6年に金山が住友へ買山されて本格的に事業が展開されると同7年に製錬所の操業が始まり、同年、上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。

 ※鴻之舞の命名/アイヌ語の「ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処」の意。将来の発展を祈念して「鳥王・コウノトリが舞うが如し」と当て字した。

釣山 史さん、いつもありがとうございます。
オホーツク発掘ブログ事務局のkoroです。

上藻別はハッカの産地でもあったのですね。
ハッカや金山で賑わっていた当時にタイムスリップ
してみたくなります。
鴻之舞の当て字の由来も興味深かったです。
アイヌ語との意味は違えど、いい地名ですね。

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